フィリピン女性 奴隷とメイドの一生①
その灰はトースターの大きさほどの黒いプラスチック製の箱に詰まっていた
私はそれをスーツケースに詰めて、フィリピンのマニラに向かう飛行機に搭乗した
マニラに到着し、そこから車で地方の村に向かう、56年間私の家族の奴隷として過ごした女性を故郷に返すために
私はトートバッグを肩から降ろし彼女に渡した
彼女は笑顔を浮かべたままそのバッグを丁寧に受け取り
木製のベンチに向かって歩みそこに座った
彼女はバッグから箱を取り出しじっくりと眺めた。
「ローラはどこですか?」と彼女は柔らかく言った
この地域の人々は愛する人を火葬する習慣がなかった
彼女は、ローラがそのような形で帰ってくることを予想していなかった
彼女はローラの帰還を喜ぶのではなく、泣き始めた
私も一緒に10分間、ただ泣いた
そして彼女は、「食事の時間だ」と云ってキッチンへ消えた
ローラが生まれた場所に彼女を戻すことが正しいことだったと実感した
きょう紹介するのは、「エウドシア・トマス・プリドの一生」なんですが、カバータイトルは
「私の家には奴隷がいた」になります ・・・・ 実話(ノンフィクション)
これはフィリピン系アメリカ人、Alex Tizonさん(ジャーナリスト)の「実話手記」によるもので
この作品が「アトランティック」誌に掲載されることが決まる直前に急死した、ピューリッツアー賞受賞作家です因みに、『2017年最も読者を魅了した記事ベスト100』の1位に輝いた記事だそうです
私はこの記事を知らなかったんですが、もしかしたら目にした読者さんが居るかもしれませんね
この作品を短縮バージョンにしたつもりが ・・・・ ご覧ください
先ず文頭に、フィリピンでの奴隷について説明します
フィリピン諸島における奴隷の歴史は長い
スペインに征服される前、島民たちはほかの島から連れてきた人々を奴隷にした
主に戦争の捕虜や犯罪人、債務者などだ。奴隷にはさまざまな形態があった
手柄を挙げれば自由を勝ち取ることができる戦士もいれば、財産として売り買いされたり交換されたりする召使いもいた
地位の高い奴隷は地位の低い奴隷を所有することができた
地位の低い奴隷も、最底辺の奴隷を所有することができた
生き延びるために自ら奴隷となる人もいた
労働の対価に食料や寝床が与えられるし、保護してもらえるからだ
16世紀にスペイン人が到来すると、彼らは島民を奴隷にし、のちにアフリカやインドの奴隷を連れてきた
その後、スペイン王室は自国や植民地で奴隷を段階的に廃止していったが、フィリピンはあまりに遠く離れていたので、
監視の目が行き届かなかったという
1898年に米国がフィリピンを獲得してからも、隠れた形で伝統は残った
現在でも、貧困層でさえ「ウトゥサン」や「カトゥロング(ヘルパー)」、「カサンバハイ(メイド)」を持つことができる
自分より貧しい人がいる限りはそれが可能であり、下には下がいるものなのだ
そんなフィリピンでこの物語は始まります
祖父は、多いときで3家族のウトゥサンを自分の土地に住まわせていた
その土地土地に、愛人も住まわせていたそうです
祖父は権威主義の軍人でしたフィリピンが日本の占領下にあった1943年春、彼は近くの村に住む18歳の少女を連れて帰ってきた彼のいとこで、米農家の娘だった
この少女は一文無しで、教育を受けていなかったし、従順に見えた
彼女はどうしようもなく不幸だったが、ほかに行くあてがなかった
そこで、祖父は彼女にある提案をした
「12歳になったばかりの娘の世話をしてくれるなら、食料と住まいを与えよう」 (12歳の娘とは、Alexの母のことです)
「彼女はおまえへのプレゼントだ」と、祖父は私の母に告げた
彼女の名前は、ローラといいます
夜になるとローラは日々の仕事、犬に餌を与え、床を掃除し、
川で手洗いで洗濯した衣類を折りたたむ作業が終わると、彼女は母のベッドの脇に座り母が眠りにつくまでうちわで扇いでいた
1950年に母は私の父と結婚しマニラに移り住んだ、もちろんローラを連れて
私の兄アーサーは1951年に生まれた
私は次に、さらに3人の兄弟が続いた
私の両親はローラが両親たちにそうしてきたように、子供たちにも献身的でいることを期待していた
ローラが私たち兄弟の世話をしている間、私の両親は学校に通い高度な学位を取得したがマニラには職がなかった
ある時大きな転機が訪れた、父に外務省への就職の話が出てきたのだ。
給料は僅かだったがその仕事先はアメリカにあった
それは両親が子供のころから夢見てきた場所であり、両親が望むものすべてが実現する可能性のある国だった
父はアメリカに着いたらすぐにローラに「手当」を与えると言った
そうすればローラは村に残った彼女の両親や親族に送金することができると
ローラの両親は床が土のままの小屋に住んでいた
ローラは両親にコンクリートの家を建て彼らの生活を劇的に改善できることを夢見たのだ
1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った (ローラ27歳の時)数多くの面において、彼女は私の母や父よりも私の親だった
彼女の顔は私が朝最初に見る顔であり、夜最後に見る顔だった
私が赤ん坊の頃、 "ママ"や "パパ" などと喋るよりもずっと前からローラの名前を発していた
私が幼児の頃、ローラが私を抱かない限り、 少なくとも近くにいてくれない限り私は眠りにつかなかった
しかし、ローラが約束された手当を受けとることはなかった
母は帰宅したときにローラが家を十分に清掃できていなかったり、郵便物を取ることを忘れたりすると彼女を叱責した
そして父が帰宅するとまたローラに怒鳴り声をあげた、そのたびに家の誰もがすくみ上った。
時には私の両親は二人でローラを責め立てた
彼女が泣いてしまうまで、まるで泣かせること自体が目的であるかのように ・・・・
私がローラの状況をはっきりと理解したのは私が11歳か12歳の頃だった
8歳年上の兄のアーサーから、それまで私の理解になかった "奴隷" という言葉を教わった
彼がそれを教えてくれるまで、私はローラを家庭内の不幸な一員としか考えていなかった
(移住して5年後 Alexは左から2番目 ローラは一番右)彼女のような生き方をしている人間が他にいると思うか?
無給で毎日骨折って働く人間がいるか?
椅子に長く座りすぎだと怒鳴りたてられる人間がいるか?
毎日クズや食べ残しをキッチンで食べる人間が、 ・・・・ それが、「奴隷だ!」
彼女は私を寝かせつけるためにタガログ語の子守歌を聞かせてくれた女性だった
服を着せ私に食事を与えてくれ、朝に私を学校に連れて行き、午後に私を迎えに来てくれた女性だった
私が長い間病気でふせていると、食べる元気がない私のために食べ物を噛んで小さくし食べさせてくれた女性だった
すみません、長くなったので明日に続きます
私はそれをスーツケースに詰めて、フィリピンのマニラに向かう飛行機に搭乗した
マニラに到着し、そこから車で地方の村に向かう、56年間私の家族の奴隷として過ごした女性を故郷に返すために
私はトートバッグを肩から降ろし彼女に渡した
彼女は笑顔を浮かべたままそのバッグを丁寧に受け取り
木製のベンチに向かって歩みそこに座った
彼女はバッグから箱を取り出しじっくりと眺めた。
「ローラはどこですか?」と彼女は柔らかく言った
この地域の人々は愛する人を火葬する習慣がなかった
彼女は、ローラがそのような形で帰ってくることを予想していなかった
彼女はローラの帰還を喜ぶのではなく、泣き始めた
私も一緒に10分間、ただ泣いた
そして彼女は、「食事の時間だ」と云ってキッチンへ消えた
ローラが生まれた場所に彼女を戻すことが正しいことだったと実感した
きょう紹介するのは、「エウドシア・トマス・プリドの一生」なんですが、カバータイトルは
「私の家には奴隷がいた」になります ・・・・ 実話(ノンフィクション)
これはフィリピン系アメリカ人、Alex Tizonさん(ジャーナリスト)の「実話手記」によるもので
この作品が「アトランティック」誌に掲載されることが決まる直前に急死した、ピューリッツアー賞受賞作家です因みに、『2017年最も読者を魅了した記事ベスト100』の1位に輝いた記事だそうです
私はこの記事を知らなかったんですが、もしかしたら目にした読者さんが居るかもしれませんね
この作品を短縮バージョンにしたつもりが ・・・・ ご覧ください
先ず文頭に、フィリピンでの奴隷について説明します
フィリピン諸島における奴隷の歴史は長い
スペインに征服される前、島民たちはほかの島から連れてきた人々を奴隷にした
主に戦争の捕虜や犯罪人、債務者などだ。奴隷にはさまざまな形態があった
手柄を挙げれば自由を勝ち取ることができる戦士もいれば、財産として売り買いされたり交換されたりする召使いもいた
地位の高い奴隷は地位の低い奴隷を所有することができた
地位の低い奴隷も、最底辺の奴隷を所有することができた
生き延びるために自ら奴隷となる人もいた
労働の対価に食料や寝床が与えられるし、保護してもらえるからだ
16世紀にスペイン人が到来すると、彼らは島民を奴隷にし、のちにアフリカやインドの奴隷を連れてきた
その後、スペイン王室は自国や植民地で奴隷を段階的に廃止していったが、フィリピンはあまりに遠く離れていたので、
監視の目が行き届かなかったという
1898年に米国がフィリピンを獲得してからも、隠れた形で伝統は残った
現在でも、貧困層でさえ「ウトゥサン」や「カトゥロング(ヘルパー)」、「カサンバハイ(メイド)」を持つことができる
自分より貧しい人がいる限りはそれが可能であり、下には下がいるものなのだ
そんなフィリピンでこの物語は始まります
祖父は、多いときで3家族のウトゥサンを自分の土地に住まわせていた
その土地土地に、愛人も住まわせていたそうです
祖父は権威主義の軍人でしたフィリピンが日本の占領下にあった1943年春、彼は近くの村に住む18歳の少女を連れて帰ってきた彼のいとこで、米農家の娘だった
この少女は一文無しで、教育を受けていなかったし、従順に見えた
彼女はどうしようもなく不幸だったが、ほかに行くあてがなかった
そこで、祖父は彼女にある提案をした
「12歳になったばかりの娘の世話をしてくれるなら、食料と住まいを与えよう」 (12歳の娘とは、Alexの母のことです)
「彼女はおまえへのプレゼントだ」と、祖父は私の母に告げた
彼女の名前は、ローラといいます
夜になるとローラは日々の仕事、犬に餌を与え、床を掃除し、
川で手洗いで洗濯した衣類を折りたたむ作業が終わると、彼女は母のベッドの脇に座り母が眠りにつくまでうちわで扇いでいた
1950年に母は私の父と結婚しマニラに移り住んだ、もちろんローラを連れて
私の兄アーサーは1951年に生まれた
私は次に、さらに3人の兄弟が続いた
私の両親はローラが両親たちにそうしてきたように、子供たちにも献身的でいることを期待していた
ローラが私たち兄弟の世話をしている間、私の両親は学校に通い高度な学位を取得したがマニラには職がなかった
ある時大きな転機が訪れた、父に外務省への就職の話が出てきたのだ。
給料は僅かだったがその仕事先はアメリカにあった
それは両親が子供のころから夢見てきた場所であり、両親が望むものすべてが実現する可能性のある国だった
父はアメリカに着いたらすぐにローラに「手当」を与えると言った
そうすればローラは村に残った彼女の両親や親族に送金することができると
ローラの両親は床が土のままの小屋に住んでいた
ローラは両親にコンクリートの家を建て彼らの生活を劇的に改善できることを夢見たのだ
1964年5月12日、私たちはロサンゼルスに降り立った (ローラ27歳の時)数多くの面において、彼女は私の母や父よりも私の親だった
彼女の顔は私が朝最初に見る顔であり、夜最後に見る顔だった
私が赤ん坊の頃、 "ママ"や "パパ" などと喋るよりもずっと前からローラの名前を発していた
私が幼児の頃、ローラが私を抱かない限り、 少なくとも近くにいてくれない限り私は眠りにつかなかった
しかし、ローラが約束された手当を受けとることはなかった
母は帰宅したときにローラが家を十分に清掃できていなかったり、郵便物を取ることを忘れたりすると彼女を叱責した
そして父が帰宅するとまたローラに怒鳴り声をあげた、そのたびに家の誰もがすくみ上った。
時には私の両親は二人でローラを責め立てた
彼女が泣いてしまうまで、まるで泣かせること自体が目的であるかのように ・・・・
私がローラの状況をはっきりと理解したのは私が11歳か12歳の頃だった
8歳年上の兄のアーサーから、それまで私の理解になかった "奴隷" という言葉を教わった
彼がそれを教えてくれるまで、私はローラを家庭内の不幸な一員としか考えていなかった
(移住して5年後 Alexは左から2番目 ローラは一番右)彼女のような生き方をしている人間が他にいると思うか?
無給で毎日骨折って働く人間がいるか?
椅子に長く座りすぎだと怒鳴りたてられる人間がいるか?
毎日クズや食べ残しをキッチンで食べる人間が、 ・・・・ それが、「奴隷だ!」
彼女は私を寝かせつけるためにタガログ語の子守歌を聞かせてくれた女性だった
服を着せ私に食事を与えてくれ、朝に私を学校に連れて行き、午後に私を迎えに来てくれた女性だった
私が長い間病気でふせていると、食べる元気がない私のために食べ物を噛んで小さくし食べさせてくれた女性だった
すみません、長くなったので明日に続きます
スポンサーサイト
コメント
No title
なんだか・・・朝からどんよりしてしまいました😓
とても冗談なんて言える雰囲気じゃないですね・・・😅
2021-04-29 06:10 冒険王 URL 編集
Re.
こう記事のときほど、ボケしてくださいよ~
明日はもっと重い内容ですが、とても考えさせられました
移住した日本人の間では
フィリピンのの家庭に入ったメイドの扱いは、かなり厳しいよね
と云うのが共通理解です
日本では、メイド=お手伝いさん、つまり単に職業を差します
でもフィリピンでは、メイドのルーツは奴隷でもあったんですね
それが、今でも風習として残っているように思います
偶然なんですが、この2日間のニュースで2つ
① ハワイでフィリピン人メイドが、奴隷にされていた
② 足に鎖を付けられたメイドを救出 ・・・・ なんてのがありました
2021-04-29 08:16 Tomy URL 編集
基本的人権
今朝は雨で、午後には激しく降るようです。🌧
奴隷制度らしきものは、世界中にありますね。
それぞれの国情、慣習がありますから、悲劇ばかりではないと思います。
決して奴隷制度を肯定するのではありませんが、最近、変な権利意識が蔓延っている気がします。
人権侵害は駄目ですが、人権、人権と大袈裟に叫ぶ奴は「糞」が多いですね。🤡
2021-04-29 08:22 Jo59635561 URL 編集
何処で買えるのでしょう?
ピューリッツアー賞らしい内容のようです。そして主人公の両親も薄給で、ストレスの多い生活をローラに癒やされていたのでしょう。今の日本でも隣国人をヘイトしたり、他人に罵詈雑言を浴びせる人がおり、大して違いがないのではないでしょうか。理想的になれとは言いませんが悲しい現実ですね。
何処かで購入できますか?
でもなんで急にこんな話題になっちゃったの?
2021-04-29 09:04 鯨夢 URL 編集
Re.基本的人権
Alex Tizonさん、若くして亡くなったので死因を調べたんですが
どこにも書かれていませんでした
この手記も「アトランティック」誌に掲載された後、人権を軸に物凄い論争に発展したそうです
ピューリッツアー賞受賞記者の家に奴隷がいただなんて! と云う論調だそうです
でも幼かった彼に何が出来たんでしょう?
外で議論するのは良いんですが、じゃあ批判したあなたが当事者だったら、何をしてたの? って言いたくなります
2021-04-29 11:10 Tomy URL 編集
Re.何処で買えるのでしょう?
Alex Tizonさんは、この手記の前に何冊か本を出版していました
でも今回のは、「手記」なので出版されていません
「アトランティック」誌のWeb siteに残っているだけです
theatlantic.com/magazine/archive/2017/06/lolas-story/524490/
こちらで検索してみてください
他人をヘイトしたり、権威を笠に着て上から物を言う人って
結局心の弱い人だと思います
このメイドを連れてきた祖父も、軍を退官した後、拳銃自殺したそうです
メイドさん1号~4号は、カミさんの家族が探してビコールからやってきました
こんどの5号は、ミンダナオ島からやってきましたが子供12人を残しています
一番下は、いま12歳だそうです
詳しいことは聞いていませんが、どんな経緯があったんだろう?
どんな気持ちでルソンまでやって来たんだろう?
そんな事を考えながら、フィリピンでのメイドの実態を調べていて行き当りました
これを読んで、よりメイドはメイドとして受け入れるんじゃなくて
出来るだけ家族の一員として受け入れようと決めました
2021-04-29 11:22 Tomy URL 編集
時代考証がおかしいです。
「フィリピンが日本の占領下にあった1943年春、彼は近くの村に住む18歳の少女を連れて帰ってきた
彼のいとこで、米農家の娘だった」
1943年は昭和18年です。祖父は米国の軍人さんですよね 占領下にあって民間人に変装しても この行動は無理じゃ無いでしょうか 近くのオードネルには米軍捕虜が収容されているし検問が厳しく規制されていたと思う。米軍は撤退していたのでこの自由行動は無理?。
また、いとこの娘さんを奴隷扱いするのは、頭が狂っているとしか思えません。(奴隷解放の時代でなく1960年代からのストリーです~)😰
奴隷と位置付けるのではなく、何故、親戚としてつきあえなかったのか不思議です。
2021-04-29 12:12 km2c URL 編集
Re.
祖父はアメリカの軍人ではなく、フィリピンの軍人です
祖父の土地はタルラック州
土地はあってもお金は無かったそうです
その土地で親戚らに米の栽培とかをさせていたらしです
小作人なので、親戚といっても主従関係みたいですね
手記には書かれていませんが、借金の肩代わりに娘を差し出したのかも知れませんね
2021-04-29 12:26 Tomy URL 編集
今回のもまた大作ですね。日本ではあくまでお手伝いさん、家政婦(夫)さん(おまけに"私の家政夫ナギサさん"なんてドラマまでありました)、とても奴隷というイメージは湧きません。でもフィリピンでは一定以上の家には大体メイドクォーターがありますね。かつてロンドンに駐在していた時に見た、戸建ての家にはほとんどメイド部屋がありました。しかも大体は半地下の鉄格子のはまった部屋です。日本の文化と欧米の文化は根本的に違うんだなと感じます。
Tomyさん家のメイドさんは本当に幸せですね。是非日本文化の良い面を繋げていってください。完結編待ってます。
2021-04-29 12:55 ヌバリのバボイ URL 編集
No title
😢(涙)ここまで読んだだけで、涙が流れます。
ワタシの母の一生もまるで奴隷のような生活でした。
一生のうちで、どれだけの時間を自分の為に生きたのだろうと思います。
次回の掲載を心待ちにします。
フィリピンのメイドは田舎に住む従妹や親戚の子が多い。
田舎では口減らし、町では人手として扱います。
町の娘たちはいつも上から目線で田舎娘を馬鹿にする。
それが日本人と出会うと急に下手に出るようになる。
上下関係で成り立つ社会です。
2021-04-29 13:50 もちや喜作 URL 編集
Re.
今思うと、私の小学生低学年くらいまでは、お手伝いさんの居る家庭って結構ありました
決まって東北の出身でした ・・・・ もしくは戦争未亡人?
フィリピンだけじゃなくって、欧米もメイドのルーツは奴隷にあるんだろうな~って云うのを
移住して初めて肌で感じましたね
最初のメイドを探すとき、カミさんは親戚の中から探すと言ってました
「え~、扱いづらいじゃん」って思ったんですけど、色々あるんですね
2021-04-29 14:07 Tomy URL 編集
Re.
お涙は、まだまだ明日が本番です ・・・・ 大事にとっておいてください
奴隷?になった人の心情、
日本人にはとても受け入れられないし、悲しい物語
創作じゃなくて実話ですからね~
でも、最後の最後には生まれ故郷に戻れて、それだけは良かったです
2021-04-29 14:11 Tomy URL 編集
いやいや・・・
流石に私も空気読みますよ・・・😅
2021-04-29 18:47 冒険王 URL 編集
Re.
じゃあ、明日はもっと重くなりますよ
冒険王さんどんなコメントくれるかな~?
期待してます
2021-04-29 19:14 Tomy URL 編集
なぜヘルパーと呼ぶか?
私が家でお手伝いさんと呼ぶのは、私が彼女のことを社長(ダバオ南部の富裕層出身)に説明した時に彼がヘルパーと言い、ヘルパーちゃんが社長は物事が判っている人だと言った時点以降です。
ウトゥサンやカトゥロング、カサンバハイの意味を聞いたところ、全部ヘルパーといわれました。もちろんプライドもあるのでしょうし、全てが正しいとは言えないのでしょう。
お手伝いさんに家事代行は頼めてもマネージメントをお願いすることは難しいと思います。
ヘルパーちゃんは家計の節約(少しゴルフも控えたら?・・)にも口を出します。鬱陶しいこともあり、ボスは俺だとも言いますが私とは違う(日本にいる女房殿と類似の)女の視点もあり重宝しています。
2021-04-29 20:28 鯨夢 URL 編集
Re.なぜヘルパーと呼ぶか?
なんで鯨夢さんが、わざわざヘルパーちゃんと呼んでいるのか不思議でした
やっぱり理由があったんですね
メイドと呼ばれるのには、何となく抵抗もあるんでしょう
かといってセクレタリーは言いすぎでしょうから、中間のヘルパーあたりが丁度いいのかもしれませんね
我家のメイドさん5号もかなり頑固ですよ
マルンガイのお浸しは、毎日食べないと駄目だと強要してきます
2021-04-30 08:09 Tomy URL 編集