フィリピン女性 奴隷とメイドの一生②

フィリピンでは両親は、ローラへの扱いを隠す必要はないと感じていた
だがアメリカではそれを隠すために苦労し、そして彼女への扱いはよりきつくなっていた
奴隷を持つことは、私たち家族に対する、私たちのこれまですべてに対する強い疑問を私にもたらした
私たちはこの国に受け入れられるに足るべき存在なのか?
父は上司との度重なる仲たがいの後に勤めていた領事館を辞めたが、その後も米国に滞在するため
家族の永住権を手配した、しかしローラにはその資格がなかった
父はローラを国に返すべきだったのにそうしなかった
この時すでに、ローラのVISAは失効していたのだ
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51歳当時のローラ
彼女の母親はこの写真が撮影される数年前に亡くなった
彼女の父親はその数年後に亡くなった ・・・・ その時も、ローラは家に帰ることを必死に望んでいた
しかし、父は理屈を付けてフィリピンに返そうとしなかった
当局がローラの存在を知れば、そして彼女が望む通りアメリカを離れようとすれば、
ローラへの扱いを知った当局により、両親は国外追放される可能性も十分にあったのだ
ローラの法的地位は、「逃亡者」
彼女の両親がそれぞれ亡くなった後、ローラは何ヶ月も陰鬱に、寡黙になった
ローラは顔を下げたまま仕事をした

父が領事館の上司と折り合いが悪くなり、仕事をやめた
ギャンブルに嵌り、私(Alex)が15歳の時に両親は離婚
その時すでに母は、医療系のインターンとなり、内科医を目指していた
残り1年と云う所で、経済的に行き詰まり
母は仕事に行ける程度には気持ちをしっかり保っていたが、夜は自己憐憫と絶望で崩壊した
この時期の母の慰めとなったのはローラだった
ある夜、母は泣きながらローラを探しリビングルームに駆け入り、彼女の腕の中で崩れ落ちた
ローラは、私たちが子供の頃にそうしてくれたように母に穏やかに話しかけていた
私はそんなローラに、畏敬の念を抱いた

母はローラが病気になるといつも怒っていた
ローラが動けないことで生じる混乱とその治療にかかる費用に対処することを望んでいなかった
母はローラに対し、自分自身のケアを怠った結果だと非難した
もう50代になる彼女はこれまで一度として歯医者に行ったことがなかった
当時私は1時間ほど離れた大学に通っており家に帰るたびにそのことを母に言った
ある晩、ローラがかろうじてまともな状態で残っていた奥歯でパンを必死に噛んでいる様を見て、私は怒りのあまり我を失った
母と私は一晩中言い争った
お互い泣きじゃくっていたが、私たちはそれぞれ全く違った理由で泣いた
母は、「家族を支えるために身を粉にして働いているのに、子供たちがいつもローラの味方をする」
私は、「どうして彼女を奴隷としてではなく、一人の人間として見てあげることができないんだ?」
「"あなたの" 子供たちが私を嫌うようになってさぞかし嬉しいでしょうね。」母はそう言ってローラを責め、苦しめた
"なぜここに居続けるの? 逃げようとは思わないの?" ・・・・ 私たちはそうローラに尋ねた。
「誰が料理をするんですか?」と彼女は答えた
別の時には「逃げるところなんて、私にはありませんよ」と答えた
彼女はアメリカに知人もなく、家から離れた場所へ移動する手段も持っていなかった
電話も彼女を戸惑わせた
機械的なもの、ATMやインターホン、自動販売機、パソコン、それらは彼女をパニックに陥らせた
彼女は予約をすることも、旅行を企画することも、記入用紙に書き込むことも、
食事を注文することも手助けなしにはできなかった

あの大喧嘩の後、私は23歳でシアトルに移り住み実家に帰ることを避けほとんど寄り付かなくなっていた
だが私が久々に実家に帰省するとそこには変化が生まれていた
母は相変わらず母のままだったが、かつてほど容赦ない人ではなくなっていた
母はローラに立派な入れ歯と彼女のためだけの寝室を与えていた
私はローラの苦難の日々を忘れることができなかったが、それまで知らなかった母の一面も知ることとなった
母は亡くなる前に、トランク2個にいっぱいに詰まった母の日記をくれた
母は女性がそれを目指すのが珍しい時代に医学部に入った
アメリカに来てからは女性として、移民医師として、その両方で尊敬の念を勝ち取るために奮闘した
母は20年間、米国オレゴン州セーレムにある発達障害者のための州立機関である
フェアビュー訓練センターで働いていた
皮肉なことに、彼女は職業生活の大半を弱者を救うために費やしたのだ
患者らは母を敬い尊敬していた
母が亡くなる前日
司祭は母に赦しを与えたい、あるいは赦しを請いたいことはあるかと尋ねた
母は半ば閉じられた目で部屋を見渡したが何も言わなかった
それから、
ローラを見ることなく、伸ばしたその手を彼女の頭に乗せた、一言も発さずに
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その後、私たち家族とローラは一緒に暮らすようになりました
ローラには「もう何もしなくていいよ」と告げました、これからは穏やかに過ごしてほしかったから
朝は大抵 家族全員が忙しくバナナやグラノーラ・バーぐらいしか食べないのだが彼女は毎日朝食を作った
彼女は毎日ベッドを整え、家族の洗濯物を洗い、家を掃除した
「ローラ、君はもうそんなことをしなくていいんだよ。」
「ローラ、それは私たちがやるからいいんだ。」
「ローラ、それは娘たちの仕事だから。」

彼女は「オーケー」と答えるのだが、決して仕事を止めようとはしなかった
彼女がキッチンで立ったまま食事を済ませている姿を何度か見かけた
そんな時、私が部屋に入るとビクッと身をこわばらせて、掃除を始めました
「君はこの家では、奴隷ではないんだ」
私は深呼吸をし、彼女の顔をそっと両手で包み、彼女の額にキスをした
「オーケー。」彼女はそう言った ・・・・ そして清掃に戻った
彼女が夕食を作っていたら、止める必要はない、そのまま任せればいい
彼女に感謝し、私たちはその後の皿洗いなどをすればいい
私は自分自身に絶えず言い聞かせなければならなかった、"ローラのしたいようにさせよう"

ローラが家に来てから5年ほど経った、80歳近くになった彼女の関節は悪くなり歩く時は杖を使うようになっていた
ある午後、私は彼女が裏庭のデッキに座りながら、
故郷の村の誰かが送ってきたスナップ写真をじっと眺めているのを見つけた
「家に帰りたいと思うかい、ローラ?」
「はい。」彼女はそう答えた
私はローラに飛行機代を渡した
ローラが先にフィリピンの田舎に帰り、私は1カ月後にフィリピンへ渡った
ローラの妹のジュリアナとは、65年ぶりの再会でした
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私はローラがそのまま、故郷に残る選択も受け入れるつもりでした、 ・・・・ しかし
「何もかもが変わってしまっていました。」 
村の周りを二人で歩いていると彼女はそう私に語った
「...君の庭に戻ろうか。」 私は言った
「ええ、家に帰りましょう。」 ・・・・ ローラは、故郷を離れました
ローラは晩年、字も読めるようになりました ・・・・ 独学で
彼女は必死に手紙を読む方法を学んだようです
ローラに何か質問しても、単語が1つ2つしか返ってこないことが多かった
思い出話をしながら、何気なく聞いてみました
「ローラ、君はセックスしたことある?」
「いいえ」
ローラの信条は「Bahala na」 ・・・・ 何とかなるさ
母が亡くなって12年後の全く同じ11月7日、ローラは永眠しました ・・・・ 86歳でした
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遺品整理をしていると、私たち兄弟の小学生の頃の賞や記念品の束
母の写真の写ったアルバム、雑誌のレシピの切り抜き
私が初めてジャーナリストとして書いた記事の切り抜きが出てきました
まだ、ローラは字が読めなかった頃です
それらは全て、私たちが捨てたごみの中から「拾い上げたもの」でした

2日間、長文を読んでいただいて、有り難うございました
この記事を紹介したのは、ローラだけが不幸なメイドだったわけでは無いと感じたからです
ローラのようなメイドはまだ確実に居るし、Alexのお母さんのようなタイプの富裕層も確実に居ます
子供のクラスメートの家庭に行くと感じるんですが、我々にはとても良くしてくれる感じの良い親が
メイドさんにはかなり厳しく接してたりと云うのを、何回も見たことがあります
フィリピンには、いまも階層が根強く残っているように思います
Alexも言ってました、自分たちは米国に移住したからこそ現実を理解できた
もしフィリピンに残っていたら、一生気付くことはできなかっただろう ・・・・ って

追伸:
Alex Tizonはスタンフォード大学の大学院を卒業していました
ジャーナリストになってから、連邦政府の住宅プログラムの腐敗と不平等を調査して、ピューリッツアー賞を受賞
Alexはローラを引き取ってから、毎週給料を払うようになりました
でも、ローラはその全てをフィリピンの家族に送金していたそうです
57歳の時に、薬の過剰摂取で就寝中に亡くなりました
事故なのか? 自死なのか? ・・・・ 記載はありません


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コメント

非公開コメント

No title

おはようございます
ローラさんは幸せなメイド?奴隷?だったと思いますよ
連れて行かれた家の子供達に庇われ重宝されるようになったのは
彼女の我慢?忍耐?努力?があったからこそだと思います
Alexにとっては母親同然だったのでしょうね・・・
それにアメリカに渡ったからと言って
Alexみたいな人ばかりではないとも思います
ただ・・・ローラさんにもボーイフレンド位は作らせてあげたかったですね・・・
やはり冗談なんて言える雰囲気じゃないです😓

Re.

>冒険王さん、おはようございます
私もよく仕事の同僚や後輩に言ってました
退職するときに、如何に回りから惜しまれるか、感謝されたかが大事
出世にしか興味なかった人に限って、ひっそりと辞めて行きます
ローラさんも最後には自分の理解者である、Alexと穏やかに過ごせて幸せな晩年だったと思います
ローラさんにもメイドになる前、15歳くらいのとき
農作業をしながら知り合った男の子に恋心は持ったそうです
でも、それだけ・・・・
ゴミ箱の中から家族の思い出を拾いだして、保管する
本当の家族じゃないのに
切ないですね
いや、ローラにとっては本当の家族だったんでしょうか?

人生いろいろ

 おはようございます。
切ないですね。 ・・・でも、ローラさんは満足だったと思います。
友人、親戚、親、兄弟姉妹、故郷も、長期間離れていれば「浦島太郎」です。
今、生活している場所がベターだと思います。
日本に住んでいる外人もリタイヤして、故郷に錦を飾るか、そのまま日本に残るか?
どちらが正しいか???  ・・・ 人それぞれですね。

Re.人生いろいろ

>jo59635561さん、おはようございます
私もまさか、フィリピンに移住することになるなんて! オーマイガッ!
退職後には、海外にロングステイするのは夢でした
ロングステイ先は、毎年変えようかと思っていました
私の先輩薬剤師も、マレーシアの高原に移住して、ゴルフ三昧です
人生、どこに転機が転がっているか分かりませんね
ローラさんも、晩年には幸せを感じてくれていたようです
けっして幸せな人生だったとは言えませんが・・・・

おはようございます。

「この記事を紹介したのは、ローラだけが不幸なメイドだったわけでは無いと感じたからです」

最近、再確認した言葉ですが😅「諸行無常」「塞翁が馬」フィリピンで「バハラナ」あまり考え込まないで下さいね。ここには奴隷なんかいませんよー。😄

ps;1928年生まれの母はアルファベットが読めなかった。多分、戦時中の田舎の尋常高等小学校卒では皆そうだったのでしょうね。ある時、電話で名前をアルファベットで言って、他の人に伝える様な事が有って、AとかHとか言っても文字に書けないんです。その時、驚きと頼むんじゃなかったと凄く心揺さぶられ後悔しました。ローラさん凄いじゃ無いですか幸せですよ。

Tomyさん、こんにちは。
この間、フィリピンに取り残された残留日本人のニュースを見ました。日本人の父親とフィリピン人の母親との間に生まれながら、戦後の混乱期で父親が死亡して自らの出生を証明する術がなく、無国籍のままフィリピンに留め置かれた日本人の方の話です。アメリカではアジア系の人に対するヘイトクライムも頻発していますね。
今回のローラさんのお話も踏まえて、自分は人権を大切にできるように努めていきたいものです。

Re.

>km2cさん、こんにちは 
ミーちゃんとダイちゃん、今日で今年度最後のイグザムが終わりました
奴隷とまでは行かなくても、フィリピン人家庭で働く多くのメイドさんは
日曜日も休みじゃない人が多いそうですね
ちゃんとした労働契約、と云う認識が雇う側にないんでしょう
年金も雇用者側が払わないといけないんですが、ちゃんと払ってもらっていないみたいです
雇用主と労働者ではなく、主従の関係ですよね
我家のメイドさん5号も、ABCソングを歌えなかったそうです ・・・・ ミーちゃんが言ってました
どうやらABCの順番を、正確に理解していなかったみたいです
ローラさんですが、幸せに思ってくれてたらいいですね
Alexは、ローラが亡くなって6年後に遺骨をフィリピンに届けました
その後手記を書いて投稿した直後に亡くなったそうです ・・・・ 何があったんでしょう?

Re.

>ヌバリのバボイさん、こんにちは
残留日本人は3,800人が確認されて、そのうち900人はいまだに無国籍だそうですね
これこそ基本的人権の問題です
法規のまえに、二国間協定で国籍を認定するべきです
日本人とばれないように、「父はいっさい日本語を話さなかった」なんてのもあります
残された孤児には何の責任もありません
国としてできることを、誠実に考えて欲しいです

No title

Tomyさん、こんにちわ。
奴隷制度は他国の話のようだが、日本にもこのような出来事は
江戸の昔から続いている。
女中、丁稚奉公、女郎屋、悲しい出来事はつい、最近まであった。
今から40年ほど前の事だが、東北へ嫁に行った娘が足入れ結婚だったことを知った。
昭和の時代まで「足入れ」という制度が残っていたことに驚きを覚えた。
今でも残るフィリピンには貧しさゆえの事情があるのだろうが、
貧富の差が生み出す「ローラ」のような女は数知れずいるだろうことは想像できる。

非情かもしれませんが・・・

こんにちは
感情論的に意見は色々ありますが、感想は”出来ることを、出来るだけ・・・”です。
私達が何かを見聞きして出来ることは、聞くこと、感じることでしょう。そしてどうするのでしょう。本件は読み聞きした後、感想を述べるだけなのでしょうね。
魂が洗われた!、こんな事が判った・・・でも私達に出来ることは生活をして、周囲のフィリピンに支払うこと、旅行に連れて行き、行った先で買い物をするなど収入を当地に落とすことなどアタリマエのことだけです。友人は少し裕福なので数名の子供たちに奨学金を与えています。私は四半期に1回位・・
ホーチミン在留時、ボートピープルで米国に脱出し、里帰りで幸せそうなご婦人に会いました。

Re.

>もちや喜作さん、こんばんは
私が小さい頃よく見かけた女中さん
今考えると、戦争後家さんだったり、東北農家の口減らしだったんでしょう
社会保障制度が貧弱でしたから・・・・
フィリピンも大都会のマニラ人口の35%はスラム街住民です
「10万円で娘を売り渡す(メイドに出す)」とか
本当にありそうな話ですよね

Re.非情かもしれませんが・・・

>鯨夢さん、こんばんは
私の1年後輩の薬剤師
養子縁組はしてませんでしたが、「足長おじさん」契約をしていました
孤児院の男の子ですが、教育費を負担していたんです
なかなか出来ることじゃないですよね
私は近所の孤児院(エンジェルホール)に、少しばかりの援助をしています
ボートピープルでも、アメリカ帰りだと富裕層になれるんですね
命を賭けてでも ・・・・ そんな気持ちにもなりますわ 苦笑