【番外編】 ブータン、ガーナで懸け橋となった日本人 その1

 ① ブータン偏
西岡京治さんは、昭和8年生まれ ・・・・ ブータンでは知らない人は居ないと言われるほど有名
大阪府立大学農学部を卒業後、大阪府立園芸高校で教師として働いていました
当時のブータン首相が来日したとき、大阪府立大学の中尾教授に「農業指導者を派遣して欲しい」
と依頼があり、教え子の西岡さんを推薦しました
西岡さんは昭和36年に里子夫人と結婚しましたが、昭和39年に夫婦でネパールに赴任しました
この時は、任期2年の予定でした
ブータンはインドと中国に挟まれた、ヒマラヤ山脈の一角に位置します
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当時のブータン開発農業局にはインド人に支配されており、西岡さんはとても冷遇されたそうです
それをブータン政府に訴えたところ、やっと農地と実習生を3人つけてくれました
赴任地はブータンのパロ県
日本から持ってきた野菜の種を植え、育て方を指導しました
収穫された大根は、地元の農民が見たこともない大きさでした
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2年目には水はけのよい高台の農地に移り、噂を聞いた知事や国会議員らが次々に視察に訪れました
やがて任期の2年が終わるころ、第3代国王より「任期を延長して欲しい」とお願いされました
当時のブータンの農民は物々交換ばかりで、現金収入がありませんでした
西岡さんはトラックで収穫した野菜を首都のマーケットまで運び、売りに出したところ
「こんな立派な野菜、見たことない!」と、3時間で売り切れました
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その話を聞いたパロの農民たちは、初めての現金収入に興味を覚えました
次々に西岡さんの元へ訪れ、種を分けてもらい、育て方については実習生を派遣して指導したそうです
ブータンの近代化を担っていく、パロ農場が自立していきました
昭和46年
それまでパラパラと蒔いていたお米の苗を、日本のように1列づつの並木植えに代えていきました
そうしたら、収穫量が40%も増産しました
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昭和51年
第4代ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王から、直々に
シェムガン県で米作を指導して欲しいと依頼を受けます
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この地域は焼き畑農業で決まった場所に住めない、ブータンでも一番貧しい地域でした
西岡さんは10人のスタッフを同行し、4年間で日本式稲作を定着させました
それだけでなく、お米の販売収益により ・・・・ 学校、診療所まで建てました
昭和55年
農業への貢献を評価されて、「ダショー」という最高位の称号を受けました
シェムガン県に行くとき、7歳になる娘さんの教育も考えて ・・・・ 奥さんと娘さんは帰国しています
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平成2年
ブータンの農業も軌道に乗り、農業指導もそろそろ区切りをつけるかと帰国を考え出した時
西岡さんは、感染症による敗血症で永眠 ・・・・ 59歳でした
西岡さんの葬儀は妻と娘の到着を待って3月26日に行われ、農業大臣が葬儀委員長を務める国葬でした
葬儀には5,000人を超える弔問客、40人を超える僧侶の唱えるお経がパロ盆地に響きました
ブータン人になりきって、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫
「夫は、きっとここを望んでいる」と里子さんは確信しました
お墓は、パロの高台に建てられました
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【後日談】
西岡さんは、ブータンでは農業の父と呼ばれています
そして、国王が代変わりしました
第5代国王の、ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュクさん ・・・・ 結婚後の初の外遊先は、日本を希望しました
「我々ブータンは、日本国民を常に親愛なる兄弟・姉妹と考えてきました・・・・etc.」
国王の、お言葉です
このお二人、イケメン夫婦として話題になりましたよね
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思った以上に長くなったので、ガーナの話は明日にします ・・・・ ごめんなさい

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